良太郎と遠足

東海道五十三次 plus4

歌川広重 東海道五十三次内 日本橋 朝之景
歌川広重 東海道五十三次内 日本橋 朝之景

東海道五十三次の各宿場についてのお話をしていきます。

定期的にあげていくので、時々見に来て下さいね(*´・ω-)b。



東海道って?

江戸時代、江戸の日本橋を起点として京師(京都のこと)の三条大橋までを結んでいた、約492kmの道のこと(^3^)


日本橋を出ると、最初の宿場は品川。品川の次は川崎、川崎の次は神奈川→保土ヶ谷→戸塚……。というように「次々と繋いで三条大橋まで向かっていた道」ということで「東海道五十三次」と言われています。

日本橋と三条大橋の間に、53の宿場(旅人や大名の宿泊地。また、荷物の輸送をバトンタッチする場所のこと。身分関係なく、宿場以外での泊まりは禁止。)があったことから「五十三次」の名前が付いてます。


なぜplus4?

実は東海道、のちに大坂まで延長され「五十七次」となりましたが、五十三次の終点「京都三条大橋」の8km程手前である「大津追分」から分岐する形で延ばされたんです。

よって、ここでは取り合えず五十三次の終点である三条大橋を目指し、残り四次は番外編とすることに致しました。

ページ名は「東海道五十三次 plus4」と致します!



このページでは今後、東海道五十三次の宿場を順々に紹介していきたいと思います!

日本橋をスタートしたらまず最初に通る宿場は「品川」です。


それでは東海道五十三次の旅、目指すは京都三条大橋!

しゅっぱーつ!!(*^▽^)/★*☆♪



東海道の旅、始まり始まり~♪

歌川広重 東海道五十三次内 品川 日之出
歌川広重 東海道五十三次内 品川 日之出

1.品川 (武蔵国)


お江戸日本橋を出て最初に通る宿場は「品川」です。浮世絵を見れば分かるように、東海道のすぐ横は海になっていました。

品川宿の名物は近くで獲れた芝えび、海苔だったようで、今では信じられませんよね。

因みに、浅草海苔は羽田~品川にかけての海で採れた生海苔を紙漉きの要領で加工し、販売していたそうですよ。原産地は品川であっても、加工し商品として販売されていた場所が浅草だったことから、この名前がついているようです。


品川は京都から歩いて来れば最後の宿場となり、上方から来た者にとっては「ここまで頑張って来たから、ちょっと遊んで行こう」と贅沢する場所でもあったようです。

また、潮干狩りや花見など江戸在住の者も多く遊びに来ていたようで、宿場には遊女も沢山居たようです。


宿場の中程で目黒川を渡るようになっており、目黒川より北側を北品川、南側を南品川と呼んでいました。

現在のJR品川駅は、北品川より更に北へ進んだ所にあるので、正確な品川宿の場所ではありません。京急線の北品川駅から青物横丁駅付近にかけての区間がおよそ正確な品川宿の場所になります。


品川宿の人口(天保14):6890人

家の数(天保14):1561軒

名物:芝えび、海苔、麦わら細工

最寄り駅:京急線・北品川駅






歌川広重 東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟
歌川広重 東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟

2.川崎 (武蔵国)


品川宿を出た後、大森、蒲田、六郷の渡しを越えて「川崎宿」に入ります。この浮世絵の舞台は多摩川「六郷の渡し」です。


基本的に江戸時代の街道では、大きな川に橋は架かっていませんでした。江戸を防衛する為に、わざと難所を設けていたのです。難所があれば、仮に江戸に攻め込もうとしても時間稼ぎが出来ますからね。

それと、毎年のように氾濫していた多摩川に橋を架けることが技術的に難しかったこともあるようです。


さて、渡し舟に乗って多摩川を越えました。舟を降りたらすぐに「川崎宿」に入ります。


川崎は、東海道制定当初は宿場ではありませんでした。品川の次は神奈川だったのですが距離が長く、書状荷物の継立てや旅人の負担が大きかったことから、東海道制定の22年後に新たに「川崎宿」が作られました。

多摩川の先にあったから「川崎」と名前がついたようです。


当時川崎宿で有名だった物は「奈良茶飯」。豆や雑穀を茶で炊いたもので、庶民はじめ川崎大師の参詣者、旅人の間で大人気だったようです。特に「万年屋」の奈良茶飯は有名で、位の高い武士たちも訪れ、大変な賑わいだったということです。


川崎宿の人口(天保14):2433人

家の数(天保14):541軒

名物:奈良茶飯、ハゼ料理

最寄り駅:京急線・京急川崎駅






歌川広重 東海道五十三次之内 神奈川 台之景
歌川広重 東海道五十三次之内 神奈川 台之景

3.神奈川 (武蔵国)


鶴見、生麦を通って神奈川宿に入りました。


…途中にご紹介したい部分は多々あったのですが、それらは「良太郎通信」で順次ご紹介させて頂くことにして、ここでは宿場のご案内と致しますね。

「良太郎通信」では地図を用いながら道中のご案内をし、本当に東海道を歩くつもりで作成して参りますので、どうかご興味ある方は良太郎に直接連絡頂くか、通信を置いて下さっているお店で実物を手に取ってご覧下さい!通信を置いてある場所は、本ホームページの「良太郎通信」のページでご紹介致しております!


神奈川宿は中世より湊町として栄えてきました。湊では国内各地の船が出入りし、陸地では東海道の他に八王子方面への道も通っていたので交通の要所・物資の集散地として賑わいを見せていたようです。


幕末になると神奈川宿の湊はアメリカより貿易拠点として目をつけられ、日米通商条約によって開港することが決まりました。実際に開港したのは神奈川ではなく横浜だったのですが、これには日本側の思惑があり、後程お話しますね。

とにかく当初の横浜は外国人が住めるような所ではなく、神奈川宿内の寺院が次々と欧米諸国の領事館や職員の住み処などに改造されていきました。


その中でも特に有名なのが神奈川宿名物「黒薬」を販売していた本覚寺です。

本覚寺はアメリカ領事館となり、日本人は立入禁止。寺の山門にはペンキが塗られ、枝を落とした庭の松には星条旗が翻っていたということです。


この傾向を良く思わない日本人も多く、外国人に危害を加えようとする者も現れたようです。このような日本人を取り締まるため、神奈川宿周辺には複数箇所、関門(怪しい人物が神奈川宿に入らないようにチェックする門)も設けられたということです。


因みに距離は近いものの、神奈川と横浜は江戸時代は全く違う場所でした。神奈川は「東海道の宿場として賑わっていた国の要所」。

しかし横浜は「神奈川の、当時あった湾を挟んで向かいにある浜辺の寒村」だったのです。


横浜は、当時あった湾に蓋をするような形で細長く伸びていた浜で「横に伸びていた浜」から「横浜」と名前がついたようです。

浜は今の横浜中華街辺りを付け根に馬車道辺りまで細長く続き、そこが元々の「横浜村」になります。馬車道辺りで浜は途切れ、その先のみなとみらいや横浜駅は海。対岸の神奈川までは舟で移動していたようです。

当時の横浜村の人口はわずか482人、砂地なのでろくに農業も出来ず、大変貧しかったようです。

村の人々の主な収入源はナマコ。獲って煮て乾かす作業の全てを村内で行っていたということです。


アメリカは神奈川を開港場所にすることを望んでいました。しかし日本は、東海道という国の大動脈の通る神奈川に外国人を入れることを警戒し、距離が近いのをいいことに「横浜は神奈川の一部なんです。なので条約通り神奈川を開港しますよ。」と半ば騙すような形で急ピッチで横浜の町を作り、安政6(1859)年に横浜港を開港しました。


幕末日本と欧米との駆け引きに巻き込まれた宿場、それが神奈川宿です。


神奈川宿の人口(天保14):5793人

家の数(天保14):1341軒

名物:本覚寺の「黒薬」、亀甲煎餅、生鯛

最寄り駅:京急線・神奈川駅






歌川広重 東海道五十三次之内 保土ヶ谷 新町橋
歌川広重 東海道五十三次之内 保土ヶ谷 新町橋

4.保土ヶ谷 (武蔵国)


お江戸日本橋を出発して、三つの宿場を通り過ぎて来ましたが、いよいよ今回で武蔵の国は最後の宿場になります!


神奈川宿を出ると、間もなく保土ヶ谷宿に入ります。この二つの宿場間は距離がとても短く、約5kmしかありません。

江戸から保土ヶ谷まで約32km。江戸時代当時の一般男性で一日の歩行距離が約40kmということですから、旅の第一夜をここ保土ヶ谷で過ごすか、次の戸塚にするかという微妙なところだったようです(厳密に言うと男性は次の戸塚まで歩くことが多く、女性や足腰の弱い人は保土ヶ谷で泊まることが多かったようですが)。


そのため保土ヶ谷は戸塚をライバル視し、江戸からのお客を戸塚へ流さないよう、必死で客足を止めていたようです。

旅人の足を止めるから、宿の女は「留め女」(とめおんな)と呼ばれていたということです。


十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも、保土ヶ谷の留め女が盛んに客引きをする様子を見て、登場人物の弥次さん喜多さんが興ざめする様子が書かれています。


保土ヶ谷を過ぎると「権太坂」という難所に差し掛かります。上りがきつくて、行き倒れになる人も多かったようです。

そのため保土ヶ谷は休憩なり宿泊なり、しっかり休むための大事な宿場だったということです。


さて、保土ヶ谷宿を過ぎると間もなく「権太坂」が始まります。

権太坂を上り切った所が国境で、武蔵の国とはこれでお別れとなります。

次回からは相模の国に入ります。お楽しみに!


保土ヶ谷宿の人口(天保14):2928人

家の数(天保14):558軒

名物:牡丹餅、焼き餅(権太坂の頂上・国境付近で売られていたようです)

最寄り駅:相鉄線・天王町駅






歌川広重 東海道五十三次之内 戸塚 元町別道
歌川広重 東海道五十三次之内 戸塚 元町別道
5.戸塚 (相模国)

保土ヶ谷を出てきつい権太坂(ごんたざか)を上り、国境を超え、相模の国に入りました。国境付近は山道のアップダウンが続き、茶店が多かったようです。ここで名物の牡丹餅や焼き餅を食べ、エネルギーチャージしてから再スタートする旅人も多かったことでしょう。

因みに権太坂の名前ですが、こんな言い伝えがあります。
「昔、旅をしていた武士がきつい坂に差し掛かり、近くに居た地元の老人にこの坂の名前を尋ねた。老人は自分の名前を聞かれたのだと思い、権太と答えた。それ以来、この坂の名前は権太坂となった…。」


今朝お江戸日本橋を出てから約十里(約40km)。だんだん日が暮れて来ました。
もうすぐ戸塚。第一夜の宿はここ、戸塚で取ることにしましょう。
江戸時代、朝に江戸を出た旅人は第一夜を保土ヶ谷か戸塚、第二夜を小田原で明かすことが多かったそうです。

実は戸塚、徳川家康によって東海道が制定された当初は無かった宿場になります。
保土ヶ谷と藤沢の間が離れ過ぎていた上に、権太坂を始めとする難所が続いていたこと、朝に日本橋を出て第一夜の宿を取るには丁度良い距離にあったこと等が重なり、東海道制定の3年後に新しく作られた宿場なのです。

それでは今日はこの辺で。もう寝ましょう。
おやすみなさい🌙

戸塚宿の人口(天保14):2906人
家の数(天保14):613軒
名物:うどん豆腐(豆腐を細長く切ったもの)
最寄り駅:JR東海道線・戸塚駅





歌川広重 東海道五十三次之内 藤沢 遊行寺
歌川広重 東海道五十三次之内 藤沢 遊行寺

6.藤沢 (相模国)


戸塚で第一夜を過ごし、気持ち新たに歩いて行きましょう!

戸塚宿を出るとすぐに上り坂、アップダウンが続き、最後の「遊行寺坂」を下るとようやく藤沢宿に着きます。


藤沢宿は江戸時代、江の島詣でや大山詣で、鎌倉への参詣客で大変賑わった宿場です。上の浮世絵は遊行寺橋の様子です。流れている川は境川、奥に見えるのは遊行寺です。

当時は現在の藤沢橋交差点辺りに鳥居が建っていたようですね。


観光色の強い宿場であった為、旅籠(はたご。一般人の泊まる旅館のこと)には「留め女」が沢山居たということです。

留め女は「4.保土ヶ谷」の回でも少し触れていますが、旅籠の給仕をしている女性たちのことです。給仕をすることから、別名「飯盛女」(めしもりおんな)とも言います。

表向きには給仕として働いているのですが、夜になると売春をしていました。


性にオープンな、華やかな世界で働いているように感じますが、彼女たちは自ら進んで飯盛女になったのではなく、親が借金で首が回らなくなったり、実家の貧しさの余りに身売りされて来た、悲しい女性たちです。

仕事もハードで帰る場所もなく、平均寿命は僅か21歳3ヶ月だったということですから、言葉もありません。


先程の繰り返しになりますが、藤沢は観光色の強い宿場であった為、観光客の夜の楽しみとして多くの飯盛女が必要とされていたということです。

藤沢宿内にある「永勝寺」には、このような飯盛女たちを手厚く葬ったお墓があり、男性のものもあるということです。

詳しくは分かりませんが、男性のニーズもあったということでしょうか…。時代は違えど人間ですから、当時も私たちみたいな人は居たでしょう。現在の日本よりは社会的にも認知されていたようですし、有名な某戦国武将もそうだったようですし…。



話が反れてしまいました。

さて、藤沢は観光客でも賑わいましたが、交通の要所でもあった為に人や物の行き交いが盛んでした。

東海道の他に大山道、江の島道、鎌倉道、八王子道、厚木道など、各方面へ道が出ていたということです。


今の旧藤沢宿内は車や歩行者が多くて忙しい雰囲気ですが、遊行寺や常光寺など、緑が多くて気持ちを休めるポイントも点在しています。


藤沢宿の人口(天保14):4089人

家の数(天保14):919軒

名物:サザエ、アワビ、江ノ島煮(アワビの腸を煮たもの)

最寄り駅:小田急線・藤沢本町駅






歌川広重 東海道五十三次之内 平塚 縄手道
歌川広重 東海道五十三次之内 平塚 縄手道

7.平塚 (相模国)


相模川(馬入川)を越えて平塚の宿に入って来ました。東海道の宿場の中で、規模はあまり大きくありませんが歴史は深く、東海道が徳川家康によって制定される前から宿場としての機能を持っていたようです。

また、さらに遡ると桓武天皇の孫(平政子)がこの地で没した際に塚を作って弔ったものが「平塚(たいらつか)」と呼ばれ、平塚の語源になったそうです。


浮世絵にも描かれていますが、目の前にはこんもりとした高麗山がそびえ、平塚宿の人々は次の宿場「大磯」に泊まり客を奪われないよう「大磯まで行くにはあの山を越えなければならない」と高麗山を指差し、嘘を言って旅人を泊めていたそうです。

大磯宿までの距離は約3kmととても短く、旅人としては少しでも距離を稼いでおきたいところ。平塚宿の人も必死だったのですね。


今の平塚は道路が広く、とても歩きやすいですが、当時を思わせる物は残っていません。ただ、案内板が随所あり、丁寧に説明してくれています。


平塚宿の人口(天保14):2114人

家の数(天保14):443軒

最寄り駅:JR東海道線・平塚駅






歌川広重 東海道五十三次之内 大磯 虎ヶ雨
歌川広重 東海道五十三次之内 大磯 虎ヶ雨

8.大磯 (相模国)


平塚を過ぎて大磯にやって来ました!平塚と大磯間の距離は短く、僅か3km程しかありません。今までずっと街続きでしたが、この辺で一時的に静かになります。マンションや中高層の建物が無くなり、緑の多い落ち着いた住宅街となります。東海道沿いの松並木も立派です。東京から歩いて来ると、初めての松並木になるんです。…だんだん東海道らしくなってきましたね!
湘南発祥の地ということで、夏に東京方面から遊びに来る人も多いようです。

大磯宿の人口(天保14):3056人

家の数(天保14):676軒

最寄り駅:JR東海道本線・大磯駅







歌川広重 東海道五十三次之内 小田原 酒匂川
歌川広重 東海道五十三次之内 小田原 酒匂川

9.小田原 (相模国)


丘の上にある落ち着いた街、大磯を過ぎると国府津。そこから丘を下り酒匂川(さかわがわ)に来ました。

太古の昔、ヤマトタケルノミコトが東国征伐の際、この川にお神酒を流して龍神に祈願したところ、酒の匂いが消えなかったことから「酒匂川」と名前がついたそうです。

当時は江戸を守る為に川に橋をかけることが禁止されていたので、歩行渡し(かちわたし)で川越をしていました。

人足(にんそく)と呼ばれる人が有料で旅人を川の向こう岸まで負って渡していたのです。

これを越えると、間もなく小田原の宿場に入ります。

江戸を出た旅人は、1日目の夜を戸塚で、2日目の夜を小田原で過ごすことが多かったようです。

小田原は、東海道中最大の難所「箱根」を控えていたので、皆ここでしっかり休み、鋭気を養ってから出発したのでしょう。

江戸時代の小田原は大規模な宿場ではありましたが、度重なる災害、そして観光宿泊客は湯本に取られ、財政的にはかなり厳しかったようです。

さあ、小田原を越えると、いよいよ東海道中最大の難所。「箱根八里」に入ります!お楽しみに!!

小田原宿の人口(天保14):5404人

家の数(天保14):1542軒

最寄り駅:箱根登山鉄道・箱根板橋駅

名物:ういろう(仁丹のような薬)、梅干し、かまぼこ、ちょうちん




歌川広重 東海道五十三次之内 箱根 湖水
歌川広重 東海道五十三次之内 箱根 湖水
10.箱根 (相模国)

小田原の宿を出ると、東海道は右に折れ、内陸へと入って行きます。箱根登山鉄道の線路に付かず離れず沿いながら、徒歩では気付かない程度の緩い坂を登って行きます。風祭、入生田を通り、湯本を過ぎた辺りから傾斜はきつくなっていきます。

やがて石畳の道が現れ、山の中を登って行きます。
さすが東海道最大の難所。なかなかキツいです。時々車道に出るのですが、なぜかホッとします。
自然に返りつつあるような道を進みながら、箱根の宿場に着きました。

ここには関所があり、入り鉄砲(江戸に武器を持ち込ませない)・出女(江戸に住む地方大名の奥さんが逃げないようにする)を取り締まっていました。手形(パスポート)無しに勝手に抜けた者は磔で処刑されます。

箱根は、東海道制定当初は何もない所で、人も住んでいませんでした。従って宿場ではなく、小田原の次は三島になっていました。ところが、これではあまりに負担が大きいので、間に宿場を作ることになったのです。
小田原と三島からそれぞれ50人ずつ連れて来て、住まわせました。
これが箱根宿の始まりです。

箱根宿の人口(天保14):844人
家の数(天保14):197軒
名物:寄木細工
最寄り駅:付近に鉄道はありません(元箱根港付近)





歌川広重 東海道五十三次之内 三島 朝霧
歌川広重 東海道五十三次之内 三島 朝霧

11.三島 (伊豆国)


箱根の関所を越えました。男性は女性と違ってチェックが緩いので、すんなりと越えられました。でも、チェックの際はやはり緊張しますね(^_^;


箱根の宿場を出ると、石畳の山道をどんどん登っていきます。さっきまで目の前にあった芦ノ湖も、随分と下になってしまいました。傾斜も急で、息が切れます。


…前回の箱根宿の紹介で「箱根は東海道の制定当初は何もない所で、宿場にもなっていなかった」というお話をしました。では一体なぜ、こんな山の中に国の大動脈を通したのでしょう?



答えはズバリ、江戸を防衛する為。あえて通りにくい所に道を通すことで、仮に江戸を攻める者が現れたとしても、難儀をするんです。時間も稼げるので、その間に対策を立てられますからね。

だから江戸時代の東海道は、箱根のような難所も通るし、川にも橋を架けない。ちゃんと理由があったんですね。


散々上って下って、やっと下り切りました!

だんだん家が現れ、1km程進むと「三島宿」に入りました!久し振りの街で、ホッとした気持ちになります。


三島は東海道の中で唯一、伊豆の国にある宿場になります。

箱根を越えて来た私達にとってはやれやれと休息する宿場。そしてこれから箱根を越える人にとっては気合いを入れてしっかり休む宿場となっていました。

また、宿場の途中で下田街道&甲州道と分岐する、地図で見ると珍しい十字型の宿場になります。


宿泊客が多かった上に交通の要所ということもあり、大変賑わっていたようです。


三島宿の人口(天保14):4048人

家の数(天保14):1025軒

名物:鰻、三島暦(みしまごよみ。今で言うカレンダー)

最寄駅:駿豆線・三島広小路駅






歌川広重 東海道五十三次之内 沼津 黄昏図
歌川広重 東海道五十三次之内 沼津 黄昏図

12.沼津 (駿河国)


大変賑わった三島の宿を後にし、東海道を京へと上って行きます。


途中、水がメチャメチャ綺麗な「柿田川湧水」があります。本当に、本当に綺麗です!是非、立ち寄って頂きたい!!

今は公園になっていて、遊歩道も整備され、湧水を使ったコーヒーやスイーツが売られています(^^)

この辺りは富士山からの地下水が湧いており、私達が目指している次の宿場「沼津」も、湧水のため辺り一面が「浮島ヶ原」と呼ばれる沼地だったことから名付けられています。


さて、沼津宿に着きました。江戸時代は鰹漁が盛んで、鰹節の生産量は日本一でした。今は道路が広く、近代的な街並みです。

沼津は明治以降、軍都として栄えた為、大戦中は米軍からのターゲットとなり、8回に渡って空襲を受けました。その為か、歴史を感じさせる物は残っていません。


沼津を抜けると「千本松原」と呼ばれる松林に沿って東海道は続いています。次の宿場は、水の綺麗な「原」になります。お楽しみに!


沼津宿の人口(天保14):5346人

家の数(天保14):1234軒

名物:鰹節

最寄駅:JR東海道本線・沼津駅






歌川広重 東海道五十三次之内 原 朝之富士
歌川広重 東海道五十三次之内 原 朝之富士

13.原 (駿河国)


整備された沼津の街を抜けると、東海道は海岸線に沿って真っ直ぐ伸びていきます。海岸線には「千本松原」という松林が沿っていて、その200m程内側を東海道が通っている感じです。


江戸時代はこの辺りは「浮島ヶ原」と呼ばれる広大な沼地で、人が住むのに向いていない土地でした。沼津も原も、この土地の状態を表して名付けられたものです。

江戸時代から明治にかけて「スイホシ」と呼ばれる干拓事業が盛んに行われ、多くの犠牲を払いながら徐々に田畑へと変わり、現在に至っています。この辺りに「○○新田」という地名が多いのはこのためです。


さて、昔は沼地で何も無かった原宿ですが、自慢出来るものが二つあります!

まずは景色。浮島ヶ原の大自然の後ろに大きな富士山がそびえている姿は、江戸時代東海道の絶景ポイントの一つだったようです。

そしてもう一つは白隠というお坊さん。原の出身で、メチャ偉いみたいです。


原宿は富士山からの湧水が豊かな所で今も水が湧き出し、地元で豆腐や酒作りに使われているようです。

江戸時代の名物は鰻の蒲焼!浮島ヶ原で捕った鰻を綺麗な水に2~3日つけておくと泥臭さが取れ、とても美味しいものになったようです。


さて、次回は海岸線に並行して浮島ヶ原を進み「吉原」に行きますよ(^o^)/

お楽しみに!!


原宿の人口(天保14):1939人

家の数(天保14):398軒

名物:鰻の蒲焼

最寄駅:JR東海道線・原駅





歌川広重 東海道五十三次之内 吉原 左富士
歌川広重 東海道五十三次之内 吉原 左富士
14.吉原 (駿河国)

沼津より海に沿って長く真っ直ぐ伸びていた道ですが、JR吉原駅の直前で急に右に曲がり、内陸へと入っていきます。
この辺りは江戸時代、東海道で江戸から京都に向かう際に、右手に見えるはずの富士山が左手に見えるという珍しいポイントになっており「左富士」と呼ばれていました。

吉原宿は、元々は海の近くにあったのですが、相次いで津波に襲われ二度移転した宿場になります。移転に伴って道を曲げたため、一時的に「左富士」になる区間が出来たという訳です。

一番海に近い、元々の吉原宿は「元吉原」、次に移転したのが「中吉原」、更に移転した先は「新吉原」と言われるようになったということです。

かつてこの辺りは「浮島ヶ原」という沼地で、ヨシが茂っていたところから「ヨシの原っぱ」吉原となったそうです。
沼津よりずっと沼地絡みでしたが、ここでやっと浮島ヶ原とお別れになります。

吉原宿の人口(天保14):2832人
家の数(天保14):653軒
名物:駿河半紙(これが現代の富士市の製紙産業の基になった)
最寄駅:岳南鉄道線・吉原本町駅





歌川広重 東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪
歌川広重 東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪

15.蒲原 (駿河国)


内陸に移転した吉原宿を抜けました。吉原宿周辺は、現在は富士市街地となっており、車も多く市役所始め、マンションなど大きい建物も見られます。


住宅街を歩いて行くと富士川にぶつかり、橋を渡ります。勿論、江戸時代は渡し舟でした。

富士川は山梨県から流れており、江戸時代は海と内陸の産物を運んだ舟が盛んに行き来していたようです。

それに加えて東海道の渡し舟まで往来していたのですから、この辺りは相当賑わっていたんだろうと推測されます。


川を渡るとすぐに東海道は丘を登り、景色は一変します。電気はこの川を境に60ヘルツとなります。畑が現れ山はすぐそば、上り下りやカーブの多い道になります。


江戸時代の人々もしんどかったのでしょう。「間の宿」という休憩専用の地域(村)が設けられ、名物の「栗の粉餅」を茶店などで注文し、一服していたようです。


丘を下り、平地に下りると間もなく蒲原宿に入ります。

蒲原宿は設立当時はもっと海側にありましたが、津波の被害を受け、丘の近くまで所替えをしました。丘を下って間もなく宿場に入るのはこのためです。


蒲原宿は江戸時代、富士川の舟運の基地として大変栄えた宿場になります。

江戸時代の建物も東海道沿いに保存され、現代の東京から歩いて来ると、江戸時代の残り香を感じられる初めての宿場になるかもしれません。


蒲原宿の人口(天保14):2480人

家の数(天保14):509軒

名物:栗の粉餅 (間の宿岩淵村)

最寄駅:JR東海道線・新蒲原駅






歌川広重 東海道五十三次之内 蒲原 薩た嶺
歌川広重 東海道五十三次之内 蒲原 薩た嶺

16.由比 (駿河国)


由比(ゆい)宿に着きました。山と海に挟まれた、小さな宿場です。人口も東海道の宿場の中ではかなり少ない方でした。漁業と製塩が中心産業で、駿河湾で獲れたサザエやアワビがそのまま壷焼きや刺身となって由比宿の名物になっていたようです。

…今だとこれらは贅沢品なんですけどね(^_^;)


特にこれと言った目玉が無かった由比ですが、明治時代に入ってから、一躍その名が全国に知られることとなります。

それは偶然発見された「桜エビ」の存在です。桜エビは、駿河湾でしか獲れないそうです。

江戸時代とは関係ありませんが、ご紹介させて頂きますね。


「明治27年のある日、地元漁師がアジ漁に使っていたアミをしまい忘れ、一晩放置してしまった。

その間にアミは海の深くまで潜ってしまい、翌朝引き上げた時に小さなピンク色のエビが沢山かかっていた…。」


この偶然を機に、由比は桜エビ漁で一躍有名になった、ということなんです。


江戸時代の名物ではありませんが、現在由比の街では桜エビを使った料理屋を見かけることが出来ますので、気になる方は是非、行かれてみて下さいね。


由比宿の人口(天保14):713人

家の数(天保14):160軒

名物:サザエの壷焼き、アワビの刺身

最寄駅:JR東海道線・由比駅






歌川広重 東海道五十三次之内 興津 興津川
歌川広重 東海道五十三次之内 興津 興津川

17.興津 (駿河国)


山と海に挟まれた、小さな宿場「由比宿」を出ました。引き続き狭い平地を海に沿って歩いて行きます。江戸時代より前は、道を通すスペースすらない区間もあったようで、そのような所は波が引いたタイミングで素早く渡っていたということです。(知らんけど!)


そのような不便な道ですが、江戸時代、朝鮮通信使が通る際に付け替えられ、山の急斜面中腹に「さった峠」が出来ました。


江戸時代に出来たさった峠の東海道は今でも歩くことが出来、富士山と駿河湾、伊豆半島、狭い平地の中に国道や東名高速・JRが通る様子が一望出来る「絶景ポイント」となっています。

天気や光の加減で富士山や駿河湾の様子が変わり「色々な表情が撮れる」と、さった峠に通う写真愛好家もおられるようです。


江戸時代の興津宿の名物は鯛。徳川家康の好物だったようです。因みに家康は最期、鯛に当たって死んだと言われています。

また製塩が中心産業で、興津から甲府方面に出ている「身延道」を通って興津の塩が内陸部へ運ばれていた、ということです。

静かな宿場ですが、交通の要所でもあったんですね。


さて、前回今回と静かな宿場を歩いて来ましたが、次回からは再び都会へ!静岡市街地へと入って行きます。


お楽しみに!


興津宿の人口(天保14):1668人

家の数(天保14):316軒

名物:興津和紙、興津鯛

最寄駅:JR東海道線・興津駅






歌川広重 東海道五十三次之内 江尻 三保遠望
歌川広重 東海道五十三次之内 江尻 三保遠望

18.江尻 (駿河国)


山と海に挟まれた小さな宿場、興津(おきつ)を出ました。ここから少しずつ山が遠くなり、海との間に平地が広がっていきます。住宅やマンションが増え始め、JR清水駅を過ぎると商店街も現れます。

今まで小さな街を歩いていたので、とても活気ある街のように見えます。


江尻宿は清水湊(みなと)が近くにあり、江戸時代より大坂と江戸の中継港として、また駿府城への物資を運ぶため大型船が出入りし、大変栄えた宿場になります。

明治時代以降も国際貿易港として重要な役割を果たしましたが、それ故に大戦中は米軍より集中的に狙われることとなり、現在は江戸時代を感じさせるような物は残っていません。


さて、江尻宿は「川の下流・尻」という意味から名前がつき、巴川が作った砂州の上に出来た宿場になります。

湊の近くには上空から見るとカギ型の出っぱりがあって、そこには日本三景のひとつ「三保の松原」があります。


三保の松原には「羽衣伝説」が伝わっておりますので、ご紹介しますね。


昔、白龍という漁師が松原で羽衣を見つけた。そこに天女が現れ、羽衣を返すよう頼んだ。白龍は「踊りを見せてくれたら返しましょう」と言った。それに対し天女は「羽衣がないと踊れません」と言った。白龍は羽衣を返したら天女がそのまま帰るのではと疑ったが、天女は「天女である私が嘘をつく訳がない」と諭し、白龍から羽衣を返してもらう。天女は約束通り、舞を見せてから天に帰った。


…いかがでしたか?普通の話でしたか?


さぁ、次回はいよいよ駿河国の中心地。東海道五十三次中、人口ランキング第二位だった江戸時代の大都会「府中宿」です。お楽しみに!



江尻宿の人口(天保14):6498人

家の数(天保14):1340軒

名物:追分ようかん

最寄駅:JR東海道線・清水駅






歌川広重 東海道五十三次之内 府中 安倍川
歌川広重 東海道五十三次之内 府中 安倍川

19.府中 (駿河国)


今回の宿場は東海道五十三次の中で第二位の人口を誇った宿場「府中宿」です。


府中とは「政治の中心地」という意味で、ここには駿河国の国府(政府のようなもの)が置かれていたということです。駿河の府中ということから「駿府」とも呼ばれていたということです。


都市計画がしっかりと成され、京都のように碁盤の目状に道が張り巡らされました。東海道はその中を碁盤の目に沿ってカクカクと斜めに突っ切って行きます。市街地を斜めに横切るには、そうするしか無いですからね😅


因みに初代徳川将軍の家康は、将軍職を譲った後、駿府で隠居したそうです。

以後駿府は徳川家にとって重要な場所であり続けます。


宿場の人口は一万人を超え、幕府公認の遊廓もあり、大変賑わっていたようです。



府中宿の人口(天保14):14071人

家の数(天保14):3673軒

名物:安倍川餅

最寄駅:静岡鉄道線・新静岡駅






歌川広重 東海道五十三次之内 丸子 名物茶屋
歌川広重 東海道五十三次之内 丸子 名物茶屋

20.丸子 (駿河国)


当時の大都会、府中宿を過ぎました。府中宿周辺は現在も静岡市中心部ということで、店や人、大きな建物が多く、静岡駅も近いことから大変な賑わいを見せている所です。


そんな府中宿から10分程歩くと、街並みは住宅街へと変わります。途中道沿いに「わさび漬」の商店があることで、いま静岡に来て居ることを改めて感じさせてくれます。


安倍川の橋の入口に「安倍川餅屋」があります。江戸時代から続いているお店です。機会があれば、是非是非行かれてみて下さいね。

あんこの甘いやつと、醤油のしょっぱいやつがあったような気がします。

お店を過ぎるとすぐに安倍川を渡ります。

もちろん当時は橋は架かって無かったので、歩行渡し(かちわたし)と言って、人足の人にお金を払って、おぶって川を渡してもらっていました。川によって運営者が違うので料金も異なります。また、川の水位によって料金も変わったそうです。


安倍川を越えると、だんだん住宅は少なくなり、山が近くなってきます。

程なくして「丸子宿」(まりこしゅく)に入ります。

山が近く、小さな宿場でした。


この丸子宿で忘れてはいけない名物は「とろろ汁」。めちゃめちゃ美味しいです!!是非、食べてみて下さい!

お店の名前は「丁字屋」(ちょうじや)。江戸時代から続くお店です。お店の中には東海道五十三次の浮世絵(江戸時代に出回ったもの)が展示してありますので、こちらもお薦めです!


そして、丸子は国産の紅茶の産地でもあります。江戸時代はもちろん、紅茶は生産されて居なかったので、新しい名物にはなりますが、知る人ぞ知る「丸子紅茶」もお買い求めてはいかがでしょうか?


小さな丸子宿を抜けると、東海道は山へと入っていきます。宇津ノ谷峠(うつのやとうげ)と言い、面白い言い伝えの沢山ある場所です。ここではもうご案内仕切れませんので、是非是非機会あればご案内してみたいです。


それでは、次回は宇津ノ谷峠を越えて、岡部宿(おかべしゅく)へと向かいます。

お楽しみに!!



宿場の人口(天保14):795人

家の数(天保14):211軒

名物:とろろ汁

最寄り駅:付近に鉄道はありません






歌川広重 東海道五十三次之内 岡部 宇津之山
歌川広重 東海道五十三次之内 岡部 宇津之山

21.岡部 (駿河国)


数ある言い伝えを残す「宇津ノ谷峠」を越えて、山の麓まで下りてきました。下りてくると地蔵堂があります。

この地蔵堂の建立者や建立年代は不明ということですが、元禄13年(1700)に「再建」ということですから、本当に、めちゃめちゃ昔からあったということですよね。そんな所に今立っているというのが、何だか不思議な感じがします。


宇津ノ谷峠には面白いお話が沢山あるのですが、この地蔵堂に関するものをひとつ、ご紹介しますね。


鼻取地蔵

一日の農作業を終えた百姓が家に帰る途中で、連れていた牛が急に動かなくなってしまった。百姓が困っていると、一人の子どもが現れて牛の鼻を取り、楽々と引いていった。

残っていた足跡を辿ると、地蔵堂の中で消えていたという…。


こんなほっこりする言い伝えがあるということは、この地蔵堂は地元の人から大事にされてきたのでしょうね。だからこそ令和の世まで立派に残っているのでしょう。


地蔵堂を過ぎると、間もなく「岡部宿」に入ります。元々山の麓の小さな宿場だったので、参勤交代が制度化されると業務に対応出来なくなり、岡部宿誕生から33年後、隣の「内谷村新町」が岡部宿に加えられ (これを加宿といいます)、元々の岡部宿(本町)を月の上18日、新しく加宿された新町を月の下12日に分けて人馬継立業務を行ったということです。


岡部を出ると、だんだん住宅地が広がり、東海道は藤枝の街へと入っていきます。


岡部宿の人口(天保14):2322人

家の数(天保14):487軒

名物:十団子 (宇津ノ谷峠)

最寄り駅:付近に鉄道はありません





歌川広重 東海道五十三次之内 藤枝 人馬継立
歌川広重 東海道五十三次之内 藤枝 人馬継立

22.藤枝 (駿河国)


お楽しみに!!